知識人は各々の時代の社会の自意識をより醇化したかたちで所有するものであるゆえに、その時代の諸矛盾もまたより鋭いかたちで知識人の精神に皺寄せられるのが普通である。
「学を絶てば憂い无し」といみじくも老子は云ったが、逆に本来愛智者であるゆえに、すべて知識人は、個別的な経歴のいかんにかかわらず、まず内面的に葛藤的存在たらざるをえない。
とりわけ近代の知識人は、貴族が貴族であり、武士が武士である身分制的な存在形態によって、その意識のあり方の大要が伝統的に決定されているという存在ではない。
文化的指導層であり、社会の良心の体現者であるべき要請はかわらぬながら、近代の知識人はもはや門地にも身分にも頼りえず、ひたすら知識の蓄積と批評精神の練磨によって、知識人となる絶えざる形成者である。
そして彼らはその先進性や自由さの代償として、ほとんど運命的に「迷える羊」としての性格を賦与される。
文学の担い手は、ほとんどが知識人であるから、文学作品にはまた、必然的にそうした知識人の苦悩や迷いが投影される。